所長コラム(138)「考え方が違うこと」

皆様、こんにちは。運動研究所の宮島です。

前回は、最近の炎上の方向に違和感を持っていることを書きました。今回もこの点について考えてみたいと思います。

総務省統計局の人口推計によると、日本の人口は2023年7月時点で1億2456万人弱だそうです。つまり、この国には1億2456万通りの立場があり、考え方があり、生き方があるということになります。国内最高齢の方は116歳とのことで、1907年(明治40年!)生まれだそうです。当然幼少期の世の中は、現在とは全く違っていたことでしょう。スマートフォンはおろか、PCもなく、テレビもない時代です。戦争も経験されていらっしゃいますね。当然令和や平成世代とは考え方は違ってきて当然だと思います。

ここまで極端な例でなくても、我々一人ひとりは違った考え方を持っていて当然であると私は考えています。だから、自分の考え方と違うということで「攻撃」して「炎上」させる現在の状況に違和感を持つのです。「こう考える人もいるのか」という理解を試みることも重要ではないでしょうか。もちろん自分との考え方が違うことで理解が難しい場合もあると思いますが、そういう時こそ可能であれば正しく議論をして、なぜそのような考えに至ったのかへの理解を試みることが大事なのかもしれません。

もちろん「その場にふさわしい発言であるかどうか」という観点での評価はあり得るとも考えています。あるいは何らかの立場を持った人が発する言葉としてふさわしいかという評価もあるでしょう。

しかし、例えば国会でも都道府県議会でも市町村議会でも、議員と呼ばれる人は必ず選挙での有権者の投票の結果によって選出されています(最近は無投票当選も増えてきているようですが)。ということは、どこかの議員が望ましくない発言をしたとしても、その人に投票した人が一定数いるということになります。つまりそういう発言をした人に国政なり県政なりを任せたいという人がいる訳で、もし「問題がある」候補者がいるならば、本来的には選挙で有権者がふるい落とす必要があるはずです(それが難しい選挙制度になっているとも思いますが)。だから私たちの投票というのは非常に重要なのですが、前回のコラムで取り上げたような、いわゆる「炎上」してしまうような発言や行動をした人がいたとしても、「そういう考え方の人がいる」ということは認め、さらにはそういう人を議員として当選させた有権者がいること、ということは、ある程度似た考え方を持った人が一定数存在していることまで思いを馳せる必要があるようにも思います。何事も「こうでなければいけない」とヒステリックに反応するのではなく、なぜこういう行動や発言をしたのかまで一度考えてみるような「余裕」を持てるといいのではないかと考えています。

特に最近はジェンダー・アイデンティティーに関する悩みをお持ちの方が「攻撃」されてしまうケースもあるようです。こういう方も生きやすい世の中を築いていかなくてはならないですね。

次回は「学生スポーツ」について書きたいと思います。

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