所長コラム(152)「ライバル」

皆様、こんにちは。運動研究所の宮島です。

さて前回は毎年4月29日に日本武道館(東京都千代田区)で開催されている「全日本柔道選手権大会」の概要について書きました。今回はその大会の歴史に刻まれた、私が大好きな二人の柔道家について書きたいと思います。もちろん私よりお二人のことをご存じの柔道家や関係者の方はとても多くいらっしゃると思いますが、当時高校生だった私の心にとても大きな感動を与えてくれたお二人です。

まずお一人目は現在全日本柔道連盟名誉会長元会長)で、日本オリンピック委員会(JOC)の会長も務められている山下泰裕先生です。ご存じの方も多いと思いますが、昭和52年(1977年)から昭和60年(1985年)まで全日本柔道選手権大会を9連覇したり、国内外の大会で203連勝を記録したリ、そして外国人選手に負けたことがないという柔道界のレジェンドと呼ばれる方です。優勝確実と言われたモスクワ・オリンピックに政府主導のボイコットで出場することができず、涙の会見を開かれたことを私も記憶しています。そして4年後のロサンゼルス・オリンピックに出場された際には、2回戦のシュナーベル選手(西ドイツ・当時)との闘いでふくらはぎに肉離れを負いながらも決勝でラシュワン選手(エジプト)を押え込んで優勝した際に畳を叩いて喜ばれたシーンは私の大好きなオリンピックのシーンの一つです。

そしてもうお一人は山下泰裕という大天才とほぼ同時期に活躍された故・斉藤仁先生(2015年1月20日逝去・享年54歳)です。山下先生と同じくロサンゼルス・オリンピックで金メダルを獲得されましたが、4年後のソウル・オリンピックでオリンピック連場を果たし、オリンピック史上初の「日本男子柔道金メダルゼロ」の危機を救いました。準決勝では地元の大歓声を背に戦う開催国・韓国の趙容徹(チョ・ヨンチョル)選手を相手に判定で勝利し、そのまま決勝でもストール選手(東ドイツ)を倒して優勝されたのですが、「これで金メダルだ!」と決勝を前に盛り上がる日本の応援団に対し、遠方から参加した東ドイツの選手に気遣って「あまり大きな応援をするな」と口に手を当てられていたシーンも忘れられません。

このお二人はこちらをご覧になればお分かりのように、全日本選手権の決勝で3回対戦されて全て山下先生が勝利を収めています。オリンピックチャンピオンになっていた斉藤仁先生でしたが、父である伝一郎さんに「調子に乗るなよ。お前はエベレストには登っても、まだ富士山には登れていないんだから」を言われたと伝わっていますし、ご本人も「エベレストには登ったが、まだ富士山には登っていない」と言われていたそうです。

山下先生は84年の全日本選手権、そしてロサンゼルス・オリンピックで引退しようと考えられていたと伝わっていますが、結局もう一度斉藤先生と戦ってから引退しようと1985年の全日本選手権に出場されたそうです。そして見事に斉藤先生を倒して優勝をされましたが、結局斉藤先生は一度も山下先生に勝利することができませんでした。

私がいつも考えるのは「では斉藤先生は日本一になれなかった二流の柔道家だったのか?」ということで、答えはもちろん、明確にNOです。たまたま同じ時代に大天才がいたがゆえに結果を出せない選手は斉藤先生以外にもいらっしゃいます。でも斉藤先生が一流、いや超一流の柔道家であることは誰もが疑わないことだと思います。結局斉藤先生が全日本柔道選手権を制覇して「富士山に登った」のは、山下先生が引退した後の1988年のことでした。でも斉藤先生としてはその富士山はかつてより少しだけ低くなっていたかもしれませんね。

次回は子どもの競技大会について書きたいと思います。

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