所長コラム(108)「チーム選択の自由」

皆様、こんにちは。運動研究所の宮島です。

さて前回は、中学に進学すると、その中学にいる教職員による指導を受ける以外の選択肢がなくなることを書きました。このことがどのような意味を持つのかを考えてみたいと思います。

中学でスポーツをやりたいと思うお子様はその中学にいる指導者に従うことになります。私が子どもの頃は「先生」と呼ばれる人はある意味で「聖人」という扱いを受けていました。しかし、昨今の報道を見てもわかるように、先生という職業についている人が必ずしも素晴らしい気質をお持ちではないことも明らかになってきてしまいました。特に運動部の指導に関わっている先生、さらに申し上げれば現在50代でベテラン指導者(レジェンド指導者という表現も散見されますね)という人は、自身は所謂暴力指導を受けていた年代ですし、指導者になりたての頃は多少荒々しい指導も容認されていた世代だと思われます。

若干偏見もあるかもしれませんが、私の経験から申し上げると、大学を卒業したばかりの人間はまだまだ社会的には未熟なことも多く、だから入社直後に研修を受けたり、OJTという形で経験を積んだりということが必要になる訳ですが、先生という職業は着任した途端に「先生」と呼ばれることも人によっては誤解をしてしまう可能性を感じています。個人的には先生となる人には10年くらいの社会経験を持ってもらった方がいいという持論があります。

それはともかくとして。つまり「進学した中学に、必ずしも素晴らしい指導者がいるとは限らない」という残念な事実があるということになってしまうのです。転校すればいいと言われてしまうかもしれませんが、公立の場合は学区などの制約もあって簡単ではないですし、況や部活のために転校するということは、よほどのエリート選手候補でもない限り現実的ではないのではないでしょうか。

このことは公益財団法人全国高等学校体育連盟が統括する高等学校年代でも同じことが生じます。つまり、非常に重要な6年間を自分では選べない指導者につくということが起こるのです。大変残念なことに、現在の日本は少子化が急速に進行しています。チーム競技はなかなか部活動を維持することも難しいと耳にしています。私案としては、市区町村で1~2チームを各競技で持つようにして、当該市区町村内の「いい指導者」と言われる人(必ずしも「先生」ではないかもしれません)が指導する体制を構築することに、近い将来はなっていくように思っています。いずれにしても、暴力指導や過度な要求などで、子どもたちがスポーツをあきらめる、スポーツを嫌いになる要素は排除していく必要があると考えています。

次回は「東京2020大会一年後」について書きたいと思います。

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